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バイジュ(Baiju、? - 1259年?)は、13世紀中期に活躍したモンゴル帝国の将軍。『世界征服者史』『集史』ではバイジュ・ノヤン بايجو نويان Bāyjū Nūyān と呼ばれている。漢語資料では拝住。また『集史』ベスト部族誌、スニト部族誌などによるとバイジュはモンゴル族の一派ベスト部族に属し、ジェベの近親者であるという。 == 経歴 == === イラン鎮戍軍の指揮官バイジュ === 1228年、トルイ監国時代に皇子オゴデイとの協議によって、イラン方面へチョルマグンを司令とする鎮戍軍(タマ軍 lashkar-i Tamā)の派遣が決定された〔『聖武親征録』「戌子(1228年)、太宗皇帝(オゴデイ)與太上皇(トルイ)共議 力蠻(チョルマグン)遣復征西域。」〕。これはホラズム・シャー朝のジャラールッディーンがインドからイラン高原に帰還したとの情報を受けたもので、1229年に第2代モンゴル皇帝となったオゴタイはチョルマグンに4つの万戸隊を授け、チョルマグン率いるタマ軍はこの年にアムダリヤ川を渡ってイラン入りした。バイジュは当初、チョルマグン直下の千戸長であったが、後に4つあった万戸隊のうち第1万戸隊の万戸長になった〔志茂碩敏『モンゴル帝国史研究序説』p.98-99〕。 1243年、オゴデイの崩御でモンゴル帝国中央が動揺していた時期に、チョルマグン麾下のイラン鎮戍軍はイラン北西部のアーザルバーイジャーン地方からさらに西に進み、カイホスロー2世率いるルーム・セルジューク朝軍と交戦してこれを敗北させた。このキョセ・ダグの戦いによってルーム・セルジューク朝はモンゴル軍に降服し、同王朝は以降モンゴル帝国に臣従することになった。この時、キョセ・ダグの戦いでの戦闘でイラン鎮戍軍全体を直接指揮していたのが、バイジュであった。チョルマグンからバイジュにイラン鎮戍軍の指揮権が移行したのはいつごろだったかについては『世界征服者史』『集史』には明確な年次が記されていないが、ガンジャケツィのキラコス(en)による『アルメニア史』によると、キョセ・ダグの戦いより2年ほど前、アルメニア暦691年(1241年)初めに、イラン方面にいたモンゴル軍諸将に対して発したカアンの勅書によって、唖者となったチョルマグンに代わりバイジュ・ノヤンがその後任となったという〔愛宕松男「訳註ギラゴス『アルメニア史』-- E. Dulaurier のフランス語訳よりの重訳」『愛宕松男東洋史学論集 第5巻 東西交渉史』三一書房、1989年、p.451-452.〕。ルーム・セルジューク朝の敗北によって、周辺のグルジア王国やキリキア・アルメニア王国も臣従し、その対処はイラン鎮戍軍とイラン総督府に任されていたようである。 1247年初夏、バイジュが大アルメニアのスィスィアンに駐営中に、ローマ教皇インノケンティウス4世の書簡を携えて来たドミニコ会修道士アンセルムス(またはアスケリヌス)ら教皇使節が到着した。しかし、教皇使節たちの尊大な態度に立腹したバイジュは使節との面会を拒絶し、後述のように書簡の返書のみを渡して追い返している。 1246年にドレゲネの監国を経てオゴデイを継いでその長男グユクが第3代モンゴル皇帝に即位したが、イラン鎮戍軍の指揮権は1247年にモンゴル高原から派遣されて来たグユクの近臣イルチギタイに任された。このため、バイジュは指揮権を一時失っていたようである。グユク没後の監国時代も、引き続きイラン方面の支配はイルチギタイが掌握していた。 1251年にトルイ家のモンケが第4代モンゴル皇帝に即位すると、イルチギタイはモンケ暗殺計画に与したとして処刑され、バイジュは再びイラン鎮戍軍の指揮権を取り戻した。その後、クリルタイの決定によってモンケの皇弟フレグの西征軍が派遣され、バイジュ麾下のイラン鎮戍軍は、イラン総督アルグン・アカやイラン周辺のモンゴルに帰順した諸政権、北インドのカシミール鎮戍軍などの諸軍とともにフレグの指揮下に置かれた。クリルタイの決定では、チョルマグン以来のイラン鎮戍軍とそれを率いるバイジュにはルーム(アナトリア)地方へのさらなる派遣が決められていたようである。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「バイジュ (モンゴル部)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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